文章喪失の危機

 「書物」対「電子書籍(あるいは出版)」が出版界で論議されていますが、「書物」対「電子書籍」という図式は、はたして本質を突いているのでしょうか。 論議すべきは、この図式ではなく「動かせない紙面」対「動かせ、音が出る画面」として考えるべきではないでしょうか。

 グーテンベルグの印刷機は、「語り部、音読」を喪失させて書物を生み、黙読の世界を創出しました。このことを考えると、電子書籍の出現は、黙読に代わる世界が生まれることを予感させます。 それは、文章が失われていく世界が出現することを意味します。

 電子書籍は、書物の代わりに出現したのではありません。書物の役割をも持つことができる機器として登場したのです。そして、文字中心の静止画にとらわれない電子書籍は、社会のニーズを作り出していきます。 電子書籍が今以上の装置となることは必然であり、NHKなどのTVドキュメントのように面白く、また分かりやすい内容を、気軽にポケットに収めることができるのです。

 その状況を後押しするように、サブカルであるべきアニメのメジャー化、また、児童向けであるべき絵本が安易に大人向けに企画される、その様相は電子書籍の画像、動画化をさらに加速化させています。

 時代の要請は、大きな可能性を持つ機器へと移行し、そこに新たな世界を創りだします。しかし、新しい世界を創出するであろう電子書籍は、一方で、「読む世界=文章」を消滅させることを現実化させることになるかもしれません。

 今こそ、書物を電子書籍と対比させるのではなく、書物を過去の存在としないため、文明の製品ではなく文化の創造具として存続させるため、そういった議論が必要なのではないでしょうか。

 「馬を必要としない車は馬の仕事をしたのではない。馬を使うのをやめて馬のできないことをやったのである。馬はたしかに素晴らしいものである(マクルーハン)」 。

いま、馬は大いなる文化として存在しています。

蛇足的追記 一冊堂は、デジタル教科書で育った人間が社会の大半になる時のために、「書物(紙の本)の価値」を伝える存在であることを目標にしています。