紙から浮遊する文字の行き先

電子出版の魁となったボイジャーのメッセージ

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一冊堂にとって示唆に富んだ内容をもっている。

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清水徹書物について』——その形而下学と形而上学——

本とは、時間、空間を越えた記憶装置だとするならば、これを共有し、ネット接続を可能にし、人々の常時アクセスを開放すれば、ある意味完成された公共の記憶装置として存在することができる。そうなれば本(紙の)は、個人がこれを保存するために特注するものになるのかもしれない。電子端末は、その特注コストのプリペイドに過ぎないものなのかもしれない。

 

世の中にはたくさんの液晶デバイスが満ちあふれている。 紙から遊離した文字は、おそらくこうしたデバイスをも包含するかたちで飛び 交う媒体としての役割を演じることだろう。 良きにつけ、悪しきにつけ。

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紙から遊離した文字は画像となって、進化するデバイスの中で新たな世界を創出するだろう。それは、文章の喪失という危機を副産物として伴うかもしれない。

蛇足的追記 デジタル世界をも注視する一冊堂は、デジタルデータを本(プリントアウトしたものではない書物)として特注する場でもある。

小出版社の財産は編集力

 ある小出版社経営のM氏は、「本は、何十年後、何百年後に読んでも新鮮であるべき」と語っています。ですから出版社は、本がある限りは存続しなければならないという覚悟が必要です。

 ところで、過去、未来の何十年、何百年の間に、本(コンテンツ)を伝える媒体は変化していきます。歴史を振り返れば、伝える手段は「言葉」から「紙」、そして「電子媒体」へと変遷してきました。

 しかし媒体が何であれ、本(コンテンツ)の質を深化させるためには、編集という思想・技術が不可欠です。 ここに小出版社の可能性が見いだせます。編集力は、出版社の大小ではなく、編集者個々の能力によっているからです。

●小さな出版社の壁を考える

 編集力があるとしても、出版社を始めるにあたっては、次の3つは克服しなければなりません。

  1 出版社とは場であり、人に来てもらえる場を持たなければいけない。

  2 印刷代という重しを乗りこえなければいけない。

  3 デジタルという時代背景を活かさなければいけない。

 1と2は、ありていに言えばお金の問題です。

 3は、実は1と2を解決する手段を示しています。コンピュータ、またインターネットは活用する能力とチャレンジする精神があれば、個人レベルでも大いなる可能性を提供してくれます。

 1については、出版社の「原風景」ともいえるカオス的空間をインターネット上に構築することで解決します。

 2については、「One Book Publishing」が有効な手法となるでしょう。

蛇足的追記 一冊堂は、企画出版・印刷・販売の三位一体を可能であると考えて、楽天的なスタートをしています。

本は事実を示してくれるが、そこに命を吹き込むのは君の想像力だ。/R.P.ファインマン

 想像力をかきたててくれる源泉について、デジタルとアナログの時計を題材にして考えてみましょう。

 デジタル時計は、その時間を文字として表すので瞬時に時刻が分かります。しかし、時間の経過、残り時間を知るには、意図して引き算、足し算をしなければなりません。

 アナログ時計は、文字盤という図形が時間を表わすので、時刻を読み取るのに多少のタイムラグがあります。しかし、そのタイムラグの間、無意識のうちに時間の経過、残り時間などを針の位置で考えてもいます。つまり無目的ではあるけれど、同時に複数の思考回路を働かせているのです。

※ 時刻は、時の流れの中の各瞬間、つまり、1点を示します。時間は、時刻のある点からある点までの時の経過の長さを示します。

 時間的または空間的に連続して変化する量(ボリューム)を表すためには実体が必要です。そのボリュームを実感するには、前に述べたアナログ時計の特性を考えると、アナログな世界が適しているようです。

 ところで書物(紙の本)は、ボリュームを持ったアナログ空間です。 その場限りの知識を得るのではなく、想像力を働かせて知を体系的に学ぶには、「書物」の方が適しているといえましょう。

蛇足的追記 媒体を構成する内容(コンテンツ)は、伝達手段の如何にかかわらず創造性が出発点です。一冊堂は、その内容を書物という手段で伝達していきます。

一冊堂 「書物に関する図書室」 便り No.1

『本は、これから/岩波新書・池澤 夏樹著』

 書物(紙の本)だけにある特性を語っている部分を、一冊堂の視点で抜き出してみました。内容的に、「書物」を「電子書籍」と置き換えても本質的に変わらないものは、書物(紙の本)の特性とはいえないと思うので取り上げていません。

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● 本の棲み分け/池内 了

 人間はアナログで物事を認識している。ある重要な事柄が何ページの何行目に書いてあったと覚えているのではなく、本の三分の二辺りのページの上からくらいのところにあったと記憶してページを繰り直すのが常であり、それを探し当てるのが楽しみなのである。ときには、線を引いたり片隅を折り畳んでして目印にし、その部分だけを繰っては何度も読み返したりもする。そうすると妙に愛着が生まれて言葉が頭にしみこむというものである。

 〜 記録媒体としての電子書籍、自分の頭を鍛えるための紙の本

● 歩き続けるための読書/石川 直樹 

 「世界は人間なしに始まったし、人間なしで終わるだろう」

 〜 彼らの生の断片をカビバラ山地に残して、この世を去ってしまった。壁画に取って代わった活字は、同じように世界が終わるまで、存在し続けることができるだろうか。少なくとも人がいなくなった無人の荒野で、人類の歴史を語るのは電子書籍ではなく、物質に刻まれた痕跡としての活字であるとぼくは思う。

書物という伝統工芸品/上野 千鶴子

 書き手としてのわたしは、本という媒体がなくなっても痛くも痒くもない。書き手はコンテンツ生産者だ。コンテンツ生産業媒体がどうなっても残る。

 〜 出版社はなくなってもは、編集者という仕事は残るだろう。

 〜 という究極のローテクのローテク・アナログ情報のほうが、長期間の延命に耐えることが証明されている。木簡や竹簡で書かれた文字は、千年経っても読むことができる。

 書物はなくならない、今度は「伝統工芸品」として。

活字中毒社は電子書籍で本を読むか?/内田 樹

 電子書籍の難点は「どこを読んでいるかわからないことである。

 〜 いったい自分が物語のどの部分を、どの方向に向かって読み進んでいるのかがわからない。  自分が全体のどの部分を読んでいるかを鳥瞰的に絶えず点検することは読書する場合の必須の作業である。

● 実用書と、僕の考える書籍と/五味 太郎

 親しい写真家が言ってました。プロが使う数百万円のカメラでさえ、デジタルカメラはすべて使い捨てなんだそうです。中古品やまして骨董品では決してならないんだと。フィルムを使ったかつての写真機はとりえず中古品の市場があるらしい。

● 本と体/幅 允孝

 紙での読書は目と脳みそ以外にも、無意識のうちに様々な五感を総動員して読んでいます。だから指先の皮膚感覚と記憶の交差から、探していた過去の箇所へとページを捲り戻ることも自然にできます。

 紙の本は、人間の体と親和性の高い存在。だとしたら、人間の体が気持ちの好い場所で、紙の本はもっと読まれる可能性があるのだと思います。〜 

 もともと遅効性に際立つ紙の本のコンテンツは、他の情報と関係を結ぶことを得意としています。それは検索型の世の中において、ワカサギ釣り的に情報を引き上げるのではなく、その氷の下に繋がる海をイメージすることと同義です。

● 紙の本に囲まれて/福原 義春

 紙の本というものは、あくまでも実態である。積んでおいて開いてめくってみて考えながら読むことが出来る。道具というよりも材料のようなものである。

蛇足的追記 一冊堂は「書物に関する図書館」開設を目指しています。収集された書物の中から適宜、本の紹介をしていくつもりです。現在の蔵書数:140冊/目標1000冊+α

「電子書籍は文明、書物は文化」か?

 電子書籍(あるいは出版)の出現は、改めて本の存在についての論議を高めさせているようです。そこには、「本は文化である」という視点で、文化と文明の違いを述べる意見が多くあります。そのひとつとして「iPadで象徴されるデジタルメディアは『文明』であり、本や雑誌・新聞などの活字メディアは『文化』といえるのではないか/『本の底力――ネット・ウェブ時代に本を読む』(高橋文夫著、新曜社)」について考えてみましょう。

 出版は、長い歴史の中で確立された世界で、退潮しているとはいっても、いまだに1~2兆円のつく産業です。そこで生まれる出版物は、「作り手 → 読み手」という一方通行の体制の中で生まれているのです。そこで生まれた出版物には、著者が語る「文化」が当てはまるのでしょうか? 

 本や雑誌は、完成までの工程、その発行部数を考えれば文化ではなく文明の産物といえるでしょう。そこに文化があるとすれば、本や雑誌を通し、個々の感性がそれぞれに反応した結果ではないでしょうか。つまり、iPadで象徴されるデジタルメディアであっても、iPadを通して個々の感性が得る世界には文化があるといえます。

 グーテンベルグがもたらした印刷技術は、文明としての書物を創出しました。それは「音声」から「黙読」への変革であり、そのことがもたらした結果は、電子書籍が将来にもたらすであろ変革と本質的な違いはないでしょう。しかし、生み出された書物は、新しい文化の芽を作り出しています。電子書籍も新たな文化を萌芽させるでしょう。

 書物は、文字部分だけでなく、編集、装丁等の創作の集合体です。ということは、発信源である文字(文章)に対しては、iPadkindleなどの方がでピュアともいえるでしょう。

 書物の魅力を感じとれる層は、数兆円産業の受け手の中では少数派であり、大多数は、書物そのものに思い入れはないと思います。

 「書物」VS「電子書籍」は、社会的なニーズの視点では、その優劣がはっきりしています。

蛇足的追記 小さな出版社+印刷屋さんの一冊堂は、書物(紙の本)にこだわり、その特性を追求していきます。また、いつかはブックカフェ&古書店を開店することで、地域における「知の発信源」+「知的コミュニティ」=「知のセレクトショップ」をめざしていきます。

文章喪失の危機

 「書物」対「電子書籍(あるいは出版)」が出版界で論議されていますが、「書物」対「電子書籍」という図式は、はたして本質を突いているのでしょうか。 論議すべきは、この図式ではなく「動かせない紙面」対「動かせ、音が出る画面」として考えるべきではないでしょうか。

 グーテンベルグの印刷機は、「語り部、音読」を喪失させて書物を生み、黙読の世界を創出しました。このことを考えると、電子書籍の出現は、黙読に代わる世界が生まれることを予感させます。 それは、文章が失われていく世界が出現することを意味します。

 電子書籍は、書物の代わりに出現したのではありません。書物の役割をも持つことができる機器として登場したのです。そして、文字中心の静止画にとらわれない電子書籍は、社会のニーズを作り出していきます。 電子書籍が今以上の装置となることは必然であり、NHKなどのTVドキュメントのように面白く、また分かりやすい内容を、気軽にポケットに収めることができるのです。

 その状況を後押しするように、サブカルであるべきアニメのメジャー化、また、児童向けであるべき絵本が安易に大人向けに企画される、その様相は電子書籍の画像、動画化をさらに加速化させています。

 時代の要請は、大きな可能性を持つ機器へと移行し、そこに新たな世界を創りだします。しかし、新しい世界を創出するであろう電子書籍は、一方で、「読む世界=文章」を消滅させることを現実化させることになるかもしれません。

 今こそ、書物を電子書籍と対比させるのではなく、書物を過去の存在としないため、文明の製品ではなく文化の創造具として存続させるため、そういった議論が必要なのではないでしょうか。

 「馬を必要としない車は馬の仕事をしたのではない。馬を使うのをやめて馬のできないことをやったのである。馬はたしかに素晴らしいものである(マクルーハン)」 。

いま、馬は大いなる文化として存在しています。

蛇足的追記 一冊堂は、デジタル教科書で育った人間が社会の大半になる時のために、「書物(紙の本)の価値」を伝える存在であることを目標にしています。